対談 薬師寺大谷徹奘副住職にインタビュー

薬師寺の前に手をあわせる大谷副住職と鈴木氏
二人がにこやかに対談している写真

この度、弊社では「いまの時代における祈りとは何か」をテーマに、特別な対話を実現しました。お話しいただいたのは、奈良・薬師寺の副住職であり、仏教の深い教えを現代に伝える 大谷徹奘(おおたに てつじょう)師(右)。そして、祈りの形をアートとして表現する、祈りアートプロデューサー・鈴木尚和氏(左)。異なる視点から語られる「祈り」の本質が、深く心に響く対話となりました。

祈りとは

大谷  「祈り」という字を書くときに、
みんな“祈願”の「祈」と書くじゃないですか。
でも、私はそう書かない。 私は、
そういうふうには教わらなかったんです。

私が教わった「祈り」は、意識の意に、
乗り物の乗ると書く「意乗り」です。
つまり「心を乗せて生きる」
ということなんです。

鈴木 なるほど。心を乗せて
生きるで「いのる」ですか。

大谷 この“意識”という字は、
仏教では“こころ”と読むんです。
上が「音」で、下が「心」
――つまり「心の音」。
私はこれをすごく大事にしています。

鈴木 「心の音」素敵ですね。

大谷 最近、テレビで「ボーっと
生きてんじゃない!」ってあるでしょ。
あれはね、何にも意識を働かせずに生きてる
人たちへの戒めではないかと思っています。
心が乗ってないんですよ。
みんながボーッとしてるから、
ああいう言葉が受けるんです。

薬師寺の几帳の写真 薬師寺の几帳の写真

子どもを見てると、よくわかる。
やる気になったら、止めてもやる。
「ダメだ」って言ってもやる。
それは、心が乗ってるからなんです。
やりたいからやる。勉強やらないのは、
心が乗ってないだけ。
つまり、心が動かないと人は動かない。

私はいま、脳科学を勉強してるんですけどね。
脳科学の世界で言われている
“人が幸せになる条件”って、
実は仏教の教えと同じなんです。
その一番最初にくるのが「憧れ」と「夢」。
でも、今の社会はその
“憧れ”や“夢”がなくなっている。

だから私は、祈るということを考える時に、
脳科学や健康学も学んで
そこで分かったのは――
うろうろすることが大事なんです。

鈴木 うろうろ?

うろうろが大事。見出し お寺の内部をうろうろとする鈴木氏

大谷 私は一年で三百余回、
法話を勤めます。日本中をうろうろしてる。
いろんな場所で話をする。
そうすると、いろんな価値観に出会う。
千差万別の人たちの心に触れることができる。

私は、出会った人に必ず聞くんです。
「あなたは何をしに来たんですか?」
「何を望んでるんですか?」
「何が聞きたいんですか?」
「私の何がいいんですか?」って。

そうやって話を重ねていくと、
私が“伝えよう”と思っていたことじゃなくて、
相手が“求めているもの”が見えてくる。
その瞬間にエネルギーが生まれる。
相手の感情に合わせて、
私はカードをどんどん取り替えていく。
その場で、出会いながら話をして、
心のスイッチを入れていく。

でね、「うろうろしろ」って
私が言う“うろ”という言葉。
これはね、「有る」という字に
「漏れる」と書くんです。
つまり「有漏」。それを重ねて
“うろうろ”という。

仏教では“無漏(むろう)”
という言葉があって、
それは漏れのない、完全な悟りのことを言う。
だから“有漏”というのは、
まだ悟れていない未熟な自分。

私たちは、未熟なままでいい。
迷いながら、うろうろしながら、
心を育てながら生きていく。
その育てた心を乗せて生きていく。
これが、私の思う「祈り」です。

鈴木 「祈り」のキーワードですね。

命のリレー

私の父は、昭和9年生まれでした。
東京の大空襲のとき、たったひとり
埼玉に疎開して生き残った。戦災孤児です。

でもね、その孤児の時代のことを
父は一度も話さないまま、
亡くなっていきました。
私は長いこと人を見てきて思うんです。
人間って、本当に辛いことは
喋らないんですよ。

八十年前のあの戦争の時、
日本中のみんなが苦しかった。つらかった。
それでも「なんとか頑張ろう」って
立ち上がって、
先輩方が今の豊かで安全な
日本をつくってくれたんです。

そのことを、私たちは
絶対に忘れちゃいけない。

薬師寺は奈良にありますけどね、
たくさんの方々が
来てくださるということ自体が、
平和の証なんです。
争いのある国では、観光なんて出来ません。
私たちは、平和な大地の
上に立たせてもらっているのです。

私がいつも大事にしているのは、
「命のリレー」という考え方です。
今、自分が手にしている“バトン”――
それを誰が、どんな思いで渡してくれたのか。
それを考えることが大事なんです。
そうするとね、今度は自分が次の世代に
バトンを渡す番なんだ、って気づくんですよ。

日本人がなぜ世界の中で素晴らしかったか。
それは、この“命のリレー”の感覚を
ちゃんと持っていたからです。
それをつないできたのが、
お墓であり、仏壇だったんです。

だからね、今それが
なくなろうとしているのは、
本当に危ないことなんです。
家の線、命の線を切っちゃいけない。
お仏壇やお墓の形が変わっても、
つなげていくことが大事なんです。
家族の写真を残してもいい。
ペンダントに入れてもいい。
今、自分が生きていることに感謝をする――
私はずっと言い続けています。
「供養とは、感謝の心」だと。

鈴木 素敵な言葉です。

薬師寺の几帳の写真 薬師寺の几帳の写真

「合掌」一番美しい姿

大谷 もう一つ意味があってね、
合掌というのは
「この手の中に何も隠していません」
ということなんです。
全部をさらけ出している。だから祈るとき、
人は自然に手を合わせる。

だって、祈る相手は一番大切な人だから。
大切な人に向かって手を合わせる。
目の前の人も、先祖も、みんな大切な人。
だから、手を合わせるんです。

太陽が昇る。天気が晴れる。
それも尊いものだから、
自然に手を合わせたくなる。
そういう行為には、ちゃんと意味がある。

たとえば絵を見るときもそう。私の師匠は、
必ず手を合わせてから見ていた。
なぜかというと、そこに
人の魂があるからなんです。

ポケットに手を入れて眺めてるだけでは、
ただ“見てる”だけ。
でも、手を合わせるとね、
わからないけれど、通じるものがある。
その人が何を伝えたかったのか、
感じ取れる気がする。
それは仏教に限らず、
すべてに通じることなんです。

確かに、外で手を合わせるのは
少し恥ずかしいかもしれない。
でも、それは習慣の問題です。

ご飯を食べるとき「いただきます」と言う。
それも尊いものへの感謝の形。
大切なのは、尊いものを
“尊いものだ”と教えることなんです。

今の私たちはね、分からないんじゃない。
学んでいないんです。
知らないんじゃない。
学んでいないんです。

合掌というのはね、
おかげさまと自分がひとつになる姿なんです。
ぶつかり合うんじゃなく、
互いが正面から向き合う。
だからこそ、美しい。

私は毎日のように祈っていて、つくづく思う。
合掌という形は、人の心を整える形なんです。

鈴木 そう言われてみれば、徹奘さんは
いつも手を合わせてますね。
今日は、本当にありがとうございます。
祈りの本質が感じ取れました。

合掌する二人